朱莉は鳴海グループ総合商社にやって来た。手には大きな花束を抱えている。ここに来るのは朱莉が面接試験を受けに来て以来。正に1年ぶりだった。目の前にそびえたつ巨大な高層ビルを見上げながら朱莉はポツリと呟いた。「相変わらず、凄い会社……。でも世界中にある会社だもの。大きくて当り前ね」(こんなに大きな会社じゃなくても、いつか私も何処かの会社で正社員として働いてお母さんと暮せたらいいな……)朱莉は意を決すると、ビルの中へ入り……すぐに行き詰ってしまった。(どうしよう、勢いで会社まで来てしまったけど考えてみれば偶然翔先輩が出てくるはずも無いし……会えるはずなんてそもそも無かったのに……)朱莉は今更自分の取っている行動が無謀だと気が付いた。(こんな時、九条さんがいてくれれば……)そこまで考えて朱莉はすぐに考えを打ち消した。(馬鹿ね、私ったら。今何を思ってしまったのだろう)琢磨はもうこの会社にはいない。翔にクビを言い渡されてからは一切音信不通になってしまったのだから。今現在どこで何をしているのかも朱莉には分からないのだ。「これ以上私に関わればもっと迷惑をかけてしまうに決まってる。だから、きっと九条さんは……秘書をやめて正解だったんだ……」朱莉は自分に言い聞かせ、正面に座っている受付嬢の所へ行くと声をかけた。「あの……副社長室にお花をお届けに参りました。秘書の方に渡したいのですが」ドキドキとうるさい程に朱莉の心臓は高鳴っている。まるで今にも口から飛び出るのではないかと思う程であった。そんな朱莉を見て受付嬢は怪訝そうな顔を見せた。「あの……どちらからのお届けなのでしょうか?」「はい。副社長の奥様でいらっしゃる鳴海朱莉様からの依頼でございます。注文を受けたのでお届けに参りました」これは朱莉が必死で考え着いた嘘である。何とか翔の新しい秘書と接触出来ないか、散々考え抜いての策だったのだが……。「副社長の奥様からですか? それでは少々お待ちいただけますでしょうか?」受付嬢は内線電話をかけると、繋がったのだろう。少しの間何か会話をしながら時々、こちらに視線を送ってくる。やがて内線電話を切ると、受付嬢は朱莉に声をかけた。「今、副社長の秘書が参りますので少々お待ちください」「はい。分かりました」朱莉は少し下がったところで翔の新しい秘書がやって来るの
「あ、あの……すみません!」「はい。何でしょうか?」振り向く姫宮。「実は伝言を頼まれたんです」「伝言ですか?」「はい。実は副社長がお忙しそうだと思い、なかなか自分からメッセージを入れにくいので伝言を伝えておいて下さいとお願いされたんです。車を買いました。ありがとうございます、仕事が終わった後連絡下さいとのことでした。副社長に伝えておいていただけますか?」朱莉は頭の中で何度もシミュレーションした台詞を口にした。「……分かりました。副社長に伝えておきますね」姫宮は一瞬訝し気な目で朱莉を見たが、一礼して去って行った。その後ろ姿が見えなくなるまで朱莉は見送った。心臓はまるで早鐘のように打っていたが、何とか姫宮と接触を果たすことが出来たのだ。「怪しまれないうちに早く帰らないと……朱莉は足早にビルを後にした――**** ウィークリーマンションに辿り着いても、まだ朱莉の心臓はドキドキしていた。「私ってこんなに大胆なことが出来る人間だったんだ……」震える両手を見ながら朱莉は呟くと、突如メッセージの着信を知らせるメロディーが鳴った。「え?」朱莉はメッセージの相手を見て驚いた。それは姫宮からだったのだ。(ま、まさか……姫宮さんは私の顔を知っていて、さっき会社を訪ねたのが私だってばれてしまったの……?)朱莉は震えながらスマホを握りしめ、緊張しながらメッセージを開いた。『奥様。姫宮でございます。ご無沙汰しております。先程花屋の女性から花束を受け取り、副社長室に飾らせて頂きました。奥様によろしくとお話ししておりました。夜に電話を入れることを伝えるように言われたのでご連絡させていただきました。それでは失礼致します』朱莉は姫宮のメッセージを読むと安堵のため息をついた。「良かった……姫宮さんには私のことがばれなかったみたいで……でも…」朱莉はそこで悲しそうな顔をした。「多分翔先輩は明日香さんの話は姫宮さんに話しても……きっと私のことは姫宮さんには話していないんだろうな……私の顔だって知るはずないよね」そう、所詮自分は仮初の妻。後数年もたてば、朱莉と翔の離婚が成立して2人はまた元の赤の他人に戻る……それだけの関係。(でも姫宮さんと翔先輩の関係はこの先もきっと続くんだろうな……)それを思うと、朱莉は無性に寂しい気持ちに襲われるのだった――****
7時―― 朱莉は部屋のカーテンを開けた。まだ東京は梅雨明けをしていないので、空は灰色の雲で覆われて雨がシトシトと振っている。その憂鬱な空を見上げながら朱莉は溜息をついた。結局昨夜は一度も翔から連絡が入らず、心に引っかかっていたのだ。(姫宮さんが伝言を翔先輩にわざと伝えなかったか、それとも翔先輩が忙しくて連絡を入れられなかったのか……その内のどちらか1つなんだろうけど……)出来れば後者であって欲しい……もし仮に姫宮が朱莉からの連絡を翔に伝えていなければ、もう翔からは連絡がこないかもしれない。気付けば朱莉は窓の外をボンヤリと眺めていたが、こうしていても仕方が無い。今日は億ションへ一度着替えを取りに戻ろうと思っていたので、朱莉は出掛ける準備を始めた。どうせあと数日でこのウィークリーマンションを出なくてはならない。今回朱莉が東京へ出てきたのは翔の浮気調査が目的で、あまり気分の良いものではなかった。何をするにも憂鬱な気分で、朱莉は料理をする気力も持てなかった。朝食を買いにコンビニへ行こうと、玄関で靴を履いて傘を持った時に、スマホに着信が入った。(まさか、翔先輩!?)期待しながら確認すると、それは明日香からであった。(明日香さん……)昨夜は翔からの連絡は来なかった。その事を告げるときっと明日香は落胆するだろう。明日香のことを思うと気が重かった。一体どんなメッセージを送って来たのだろうか……。『おはよう、朱莉さん。今朝のニュースで東京の天気を見たけれども、梅雨の寒い日が続いているそうね。風邪引かないように温かい恰好をしていた方がいいわよ。最近お腹の調子が良くなってきたの。退院できる日が楽しみだわ。そしたら何か貴女にお礼させてちょうだい』「明日香さん……」明日香のメッセージを読んで、朱莉は目頭が熱くなった。本当は翔のことを尋ねたいはずなのに、朱莉のことを気遣って、報告をじっと待っていようとする明日香の気持ちが伝わってくる。朱莉は明日香にメッセージを書いた。『おはようございます。明日香さん。こちらは確かに寒いですが、コートを持って来ているので私は大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます。数日以内には沖縄へ戻ります。その時には明日香さんにとって良い報告を持って帰る事が出来ればいいなと思っています』内容を確認すると、メッセージを送信した。朱莉は
翔が琢磨をクビにしたという話は翔から電話で聞いた。明日香は驚いて理由を尋ねたが、翔の話では互いの方針が合わなかったからクビにしただけだとしか答えず、明確な理由を教えてもらうことは出来なかった。おまけに琢磨はスマホも解約してしまったのか、全く繋がらなくなったし、会社で使っていた専用のメールアドレスも当然エラーで戻ってきてしまう。個人用のフリーメールアドレスも同様だった。てっきり朱莉にだけは新しい連絡先を教えているだろうと思っていたけれども、朱莉も教えて貰っていないことを知った時は流石に驚いた。「翔……どうして琢磨をクビにしたのよ。朱莉さんから琢磨を遠ざける為に? ひょっとして、翔は……」しかし、明日香はそこで言葉を飲み込んで時計を見つめた。時刻は9時になろうとしている。今日はこれから超音波検査と採血がある。明日香はお腹にそっと手を当てた。未だにお腹の子供に特に何かを思うことは無いが、実際に子供を産めば自分の心の中が何か変わるのだろうか?だが、明日香には自信が無かった。何故なら明日香自身、母親から抱き締められたり、愛情を注がれた記憶が全く無かったからだ。母の愛情が欲しくて欲しくて堪らなかった。しかし母はいつも明日香に背を向け、とうとう明日香を、鳴海家を捨てて愛する男性の元へ行ってしまったのだ。最後まで明日香を顧みる事無く……。 明日香は子供に愛情を注ぐ方法が分からない。だからこそ自分の代わりに数年だけ子供を育ててくれる女性が欲しかった。他人が子供を育てる様を見てどうやって子供に愛情を注げばいいのか学びたかったのかもしれない。きっと心優しい朱莉なら愛情を持って子供を育ててくれるだろう。そしてその後は……?「翔……」明日香は天井を見つめ、ポツリと呟くのだった—―**** 朱莉は昨日と同様にウィッグにカラー眼鏡という格好で六本木にある億ションを目指して歩いていた。雨が降っていたのは幸いだった。何故なら傘で顔を隠して歩くことが出来るからだ。いつもとは違う派手めなメイクに、付けたことも無いイヤリングを今はしている。朱莉だとバレることは無いだろうが、用心に越したことはない。 エントランスに到着する前に、あらかじめ持参してきたつばの広い帽子をかぶり、中へと入る。すると、その時偶然エントランスの自動ドアが開き、中から1組の男女が現れた。朱莉は顔を見ら
朱莉は億ションの自分の部屋で呆然とソファに座り込んでいた。本当は荷物を取りに来たのに、それすら手につかなかった。(あの声は間違いなく翔先輩だった……。それにあの後ろ姿は見覚えがある……)考えてみれば朱莉はいつも翔の背中ばかりを見つめていた。だからこそ確信があったのだ。あの背中は翔で間違いないと。それに女性の後姿も昨日見かけた姫宮で間違いは無いだろう。昨日の出来事だから脳裏にはっきりと焼き付いている。「翔先輩……本当に姫宮さんと……一晩一緒だったんだですか……?」朱莉はポツリと呟き、目に涙が浮かんできた。嫌だ、信じたくない。翔が明日香以外の女性と……。そんなはずは絶対無い。朱莉はそう信じたかった。でも、何故だろう? 元々翔が朱莉を振り向いてくれることはあり得ない話なのに。それは明日香のことで十分すぎる位分かっている。仮に翔の相手が明日香から姫宮に移ったとしても、どのみち朱莉には翔と結ばれる未来が来ることは無いのだ。それなのに何故、今こんなにショックを受けているのだろう?「私……相手が明日香さんだったから諦めがついていたんだ……」その時、朱莉は初めて自分の気持ちに気が付いた。明日香と翔は昔から強い絆で結ばれている。そこに自分が割り込めるのは不可能だと分かり切っていた。そこへ突然現れた女性が明日香の前に立ち塞がったから、これ程までにショックを受けてしまったのだ。(私でさえこんなにショックを受けているんだから、明日香さんが目にしていたらどれ程の衝撃を受けていただろう……)そう考えると、あの2人が億ションから出て来る現場を見つけたのが朱莉で良かったのかもしれない。だけど……。「こんなこと、明日香さんに報告なんて出来ないよ……。だってもし本当に翔先輩が浮気していて、あの女性に本気になってしまっていたら? 明日香さんは順調にいけばあと数か月で赤ちゃんが生まれるのに……」(嘘ですよね……? 翔先輩。どうか明日香さんを捨てないで下さい……)朱莉は膝を抱えるように座り、その上に頭を乗せてすすり鳴いた――**** あれからどの位時間が経過しただろうか……。突然朱莉のスマホが鳴った。そこでようやく我に返った朱莉はスマホを手に取り驚いた。何と相手は翔からだったのである。(え!? う、嘘!? な、何故突然?)慌てながらも朱莉は電話に出た。「は、は
「く、九条さん……」あの九条琢磨が爽やかな笑顔で、朱莉の部屋の大画面テレビに映し出されている。画面の中の琢磨はインタビューに答えているのだろうか。ある言葉が朱莉の耳に飛び込んできた。『我々の会社【ラージウェアハウス】は発足してまだ2年足らずの会社ではありますが、これからどんどん業績を上げていく事になるでしょう。それこそあの日本最大手の鳴海グループにも負けない程のブランド企業に……』朱莉の握りしめたスマホからは翔の声が響いていた。『もしもし! 朱莉さん! 君は琢磨があの会社に入った事を聞かされていたのか!? 朱莉さん!』しかし、朱莉の耳には翔の言葉が耳には入ってこなかった。あまりのショックで頭の中が真っ白になっていたのだった――*** ちょうどその頃、明日香はPCの画面を食い入る様に眺めていた。見ていたのは琢磨が【ラージウェアハウス】の新社長に任命されたニュースであった。「そ、そんな……琢磨。私達を裏切ったの……? いえ、違うわね……翔のせいなんでしょう……?」(翔……貴方一体何てことしてくれたの? 2人は親友同士なんじゃ無かったの?)明日香は目を閉じるとベッドに横たわり、呟いた。「朱莉さんはこのことを知っているのかしら……?」**** 広々とした億ションのある一室。そこは京極の個人オフィスを兼ねた書斎である。この書斎には7台のPCが置かれ、京極はこれら全てを使いこなして仕事を執り行っていた。今、京極はコーヒーを飲みながら巨大スクリーンに映し出されている琢磨を見ていた。その顔には笑みが浮かんでいる。「へぇ〜。これは驚きだ。九条琢磨……やっばり君は面白い男だな……」そして京極は何処へともなく電話を掛けた――**** ここは鳴海グループの会長室。今、猛はPC電話で九条と話しをしていた。「九条、君が翔にクビを言い渡された時には正直驚いたよ。まさかあいつがそんなことをするとはね」『そうですか。でも最近私と翔の間では色々対立がありましたからね』「私は君を推していたんだよ。翔の手足となって君がどれ程力になってくれているのかは十分知っていたからね。だからこそ君を私の秘書にと考えていたのだが……」『まさか。副社長にクビにされた人間が会長の秘書をするわけにはいかないでしょう?』「……何故、もっと早く私に話してくれなかった?」重々しい口調
「九条さん……」朱莉はテレビに映し出された琢磨の顔を思い出していた。まさか沖縄で別れて以来音信不通になっていた琢磨にテレビの中で会うとは思ってもいなかった。琢磨が新社長に就任したインターネト通販会社『ラージウェアハウス』は誰もが知っている有名な大手通販サイトで、朱莉自身も良く利用している。『それこそあの日本最大手の鳴海グループにも負けない程のブランド企業に……』あの琢磨の鳴海グループに対する何処か挑戦的な物言いが朱莉は気になって仕方がなかった。まるで喧嘩を売っているようにもみえた。(九条さん……ひょっとすると、翔先輩にクビにされたことを恨んで……?」でも朱莉はすぐにその考えを否定した。(そんな馬鹿な。九条さんは立派な男性だし、おまけにすごく優秀な人物。あの台詞を言ったのは、クビにされたことが原因なはずない……)ニュースが終わった後、朱莉は翔と電話で話をしたが、正直なところ何を話たのか、ほとんど覚えていなかった。ただ1つ覚えているのは、翔に琢磨から仮に連絡が入ったら、すぐに自分に連絡先を知らせるようにとのことだった。もし琢磨が拒絶すれば、今後一切、自分達に関わってこないでくれとはっきり伝えるように翔から言われた。金で雇われた契約妻の朱莉は、翔の言葉に従う他無かった。ふと、朱莉は思った。「翔先輩……どうして私の所に九条さんから連絡が入ると思っているんだろう? 仮に連絡が届くとすれば絶対翔先輩宛てに連絡がくると思うんだけど……」その時、突如として電話がかかって来た。相手は明日香からだった。「明日香さん!」ひょっとして明日香もニュースを見たのだろうか?「はい、もしもし」『朱莉さん! ねえ、琢磨のこと知ってる!?』明日香はすぐに琢磨の話を持ち出してきた。「はい、先程テレビのニュースで見ました。……正直驚きました……」『私はネットのニュースで知ったのよ。私もすごく驚いている。今も信じられないわ。あの琢磨が………あんなことをテレビで言うなんて……。どんな時でも私達の味方だったあの琢磨が……』電話越しの明日香の声はどこか震えているように聞こえた。「明日香さん……」朱莉は明日香に何と声をかけてあげれば良いか分からなかった。『ごめんなさい、朱莉さん。でも貴女の方がショックよね。それに琢磨があんな風になったのはきっと私と翔のせいに決まって
「明日香さん……」明日香の涙ぐむ声を聞けば、翔が姫宮と億ションから出てきた話等伝えることはできない。代わりに朱莉は言った。「明日香さん。あまり思い悩むとお腹の赤ちゃんに良く無い影響が出るかもしれないので今は自分の身体のことだけを考えて下さい。翔さんの件は私が東京で出来るだけのことをしてきますから。でもあまり長くはいられませんけど。いつ、翔さんが明日香さんに会いに沖縄へ来るか分かりませんから」『そ、そうよね。あまり長く沖縄を不在にしておくわけには確かにいかないわね。それじゃ、朱莉さん。悪いけどよろしく頼むわ。もし沖縄に戻る日程かが決まったら連絡貰える? また私の方で飛行機の手配をするから』飛行機で朱莉は思い出した。「あ、あの明日香さん!」『何?』「東京行の飛行機の件、有難うございました。まさかビジネスクラスのシートを取っていただいていたなんて。とても嬉しかったです」『な、何よ……。その位のこと。だって私の個人的なお願いで東京へ行って貰うんだからそれ位は当然よ……』明日香の最後の方の言葉はかき消えそうなほど弱かった。そう、その話し方はまるで……。(え? 明日香さん……ひょっとして照れてるの……?)「明日香さん。あの……」すると明日香が言った。『と、とにかく帰りの日程が分かったらすぐに連絡してね。それじゃあね』そして電話は切れてしまった。「明日香さん……ありがとうございます」朱莉はスマホを両手で握り締めて、改めて感謝の気持ちを口にした――**** その後、朱莉が気を取り直して衣類をバックに詰めている最中に安西から電話がかかってきた。「はい、もしもし」『朱莉さんですか? いくつか調べて新しく掴んだ情報が入りましたので、これから事務所に来ることは出来ますか?』電話越しから安西の声が聞こえてきた。「はい、大丈夫です。今から1時間以内にはそちらへ伺いますね」『お待ちしていますね』「はい、よろしくお願いいたします。では、後程」電話を切ると、朱莉は時計を見た。時刻は15時になろうとしている。「ええっ!? もうそんな時間だったの? まだお昼頃かと思っていたのに……」確かに考えてみれば、琢磨のニュースを見た後の明日香からの電話。そして沖縄へ戻る為の準備。すっかり時間を忘れていた。「お昼もまだ食べていなかったし……早目に出て、カフェ
「あの……今日はどちらへ行かれるつもりですか?」すると京極は前を見ながら言った。「美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジには行かれたことはありますか?」「いいえ。それに初めて聞きます」それを聞くと京極は満足そうに笑みを浮かべる。「そうなんですね? 良かった……もう彼と出かけたことがあるのではと思っていたので」「……」朱莉はへんじが出来なかった。(京極さんの言う彼って……きっと航君のことなんだろうな……)「美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジってどんなところなんですか?」「そこはアメリカの雰囲気をまねた商業施設ですよ。ショッピング、グルメ……まさにエンターテインメントの場所です。気に入っていただければいいのですが」「そうですか……。ところでこの車はレンタルですか?」すると京極の口から意外な言葉が飛び出してきた。「いえ、これは僕の車ですよ」「え!?」朱莉は予想外の京極の返事に驚き、思わず運転席に座る京極を見つめた。「あ、あの……それっていったいどういう意味……ですか?」「そのことも含めて美浜アメリカンビレッジに到着したらお話ししますよ」「京極さん……」(何故ですか……? 何故京極さんはいつもいつも肝心な事を話してくれないのですか……?)朱莉のそんな不安をよそに、京極が尋ねてきた。「安西君はどうしているのですか?」「航君は家で仕事をしています」「そうですか。確か彼は興信所で働く調査員と言っていましたね。ひょっとすると彼は僕のことも色々と既に調べているのではないですか?」京極の的を得たような台詞に朱莉はドキリとした。「さ、さあ……。私は何も聞かされていませんし、聞きもしませんので……」朱莉は心の動揺を悟られないように答える。「……そうですか」京極は少しの間をあけると続けた。「僕は朱莉さんの言うことなら何でも信じますよ」京極は朱莉の方を向いて笑顔で答えるが、逆にそれは朱莉の不安を掻き立てた。「京極さん……私は……」「朱莉さん」「は、はい」「沖縄で辛い目に遭ってるのでは無いかとずっと心配していました。でも思っていたよりもずっと元気そうで……いえ、むしろ東京に住んでいた時よりもイキイキとして見えて安心しました。これも全て彼のお陰なんでしょうね?」「そ、それは……」「あ、見えてきました。あれが美浜タウンリゾ
翌朝——「本当はついて行ってやりたいけど、多分京極はそれを許さないと思うから……。本当に悪い……」玄関を出ようとした朱莉に航は辛い気持ちで声をかけた。「航君。京極さんはね、すごくいい人なんだよ? 私が手放さなくてはならなくなってしまった犬を引き取ってくれたし、羽田空港まで送ってくれたりしたんだよ ?だから大丈夫だよ」朱莉は心配をかけたくなくて笑顔で言うも、ショルダーバッグを握りしめる朱莉の手が小刻みに震えているのを航は見逃さなかった。(朱莉……!)その様子があまりにいじらしくなり、航はとうとう我慢が出来ず、小刻みに震えている朱莉の手を握りしめた。「朱莉……! 何かあったらすぐに俺に電話しろよ!? 助けが必要ならどんなところに朱莉がいたって駆けつけるから!」「大丈夫だってば。そんなに心配しないで? 今日はお父さんに定期報告をする日なんでしょう?」朱莉は笑顔で航に言う。「分かったよ……。だけど……これだけは約束してくれ」「約束?」「ああ……絶対にここに今日帰って来てくれよ? 俺、待ってるから……!」航は必死だった。実は航は最悪のことを考えていたのだ。朱莉の秘密を脅迫する為に京極は朱莉に関係を迫って来るのではないかと……。興信所の調査員という特殊な仕事をしてきた航はそのような男女トラブルの話を散々見てきたからだ。(あいつは紳士的に振る舞っているが何を考えているのか全く読めない……。くそ! 本当は朱莉に盗聴器を仕掛けてやりたいくらいだ……!)だが、航は調査員として働き、今の今まで盗聴器と言う非合法な手を使ってきたことは一度も無い。そのようなことをして、仮にばれてしまった場合は当然罪に問われるからだ。だが、今回はそれでも構わないから盗聴器を仕掛けたいと思う気持ちを必死に抑え、朱莉を見送ることに決めたのだ。「航君……本当に大丈夫だから。家に帰るときは電話するね?」航があまりにも心配するので、朱莉は笑顔で航の顔を見た。「あ、ああ……。分かったよ……」航は朱莉の手を離した。「それじゃ行ってくるね?」朱莉は手を振って玄関のドアを開ける。「……行ってらっしゃい、朱莉」航が寂し気に手を振る姿を見ながら朱莉は玄関のドアを閉めた――**** 朱莉がエントランスに到着すると、すでにそこには京極の姿があった。「おはようございます。朱莉さん
「ああ、そうだ。1人目のアイツは鳴海翔のことだ。そして2人目のアイツは京極正人の方だ。で、どっちのアイツから言われたんだ!?」航の真剣な様子とは裏腹に奇妙な言い回しのギャップがおかしくなり、朱莉は思わず笑ってしまった。「フフフ……」「な、何だ? 朱莉。急に笑い出したりして。とうとう悩みすぎて現実逃避でもしてしまったか!?」焦りまくる航の様子が更におかしくて、朱莉は笑った。「う、ううん。フフフ……そ、そうじゃないの。航君の様子が……お、面白くて、つ、つい……」「朱莉……?」(何だ? 今俺、そんなにおかしなこと言ってしまったか? 焦って妙なことでも口走ったか?)「ご、御免ね……。航君。航君は……フフッ。し、心配してくれているのに笑ったりして……」そして暫く朱莉は笑い続けていたが、その様子を航は黙って見ていた。(いいさ、俺の言動で朱莉を楽しい気持にさせられたなたら少しは朱莉の役にたててるってことだよな?)ようやく笑いが収まった朱莉は事情を説明した。「実はね、京極さんから電話がかかってきたの」「そうか、やはり電話の相手は京極のほうからだったのか。それでアイツは何て言ってきた?」そこまで言って、航はハッとなった。「ご、ごめん。朱莉のプライベートな話だったよな。口を挟むような真似をして悪かった」普段から仕事で個人情報を取り扱う機会が多い航は、咄嗟にそのことが頭に浮かんでしまった。「何で? そんなこと無いよ。むしろ……」朱莉はその時、突然航の左腕を掴んだ。「迷惑じゃないと思ってくれるなら……口……挟んで……?」「朱莉……」朱莉のその目は……航に助けを求めていた——****「あの京極って男に下手な嘘は通用しないぞ」今、航と朱莉は2人で向かい合わせにリビングのソファに座って話しをしていた。「そう……だよね……」「京極に限らず、恐らく他の誰もが嘘だと思うだろう。第一、子供を産む状況にしてはあまりにも不自然な点が多すぎる。本当に鳴海翔は何を考えているんだ? いや……恐らく、あの男は何も考えていないんだろうな。面倒なことは全て朱莉に丸投げしてるんだから。少しでも誠意のある男なら、色々な手を使って不測の事態が起こっても大丈夫なように根回しをするだろう。それなのに……」航は悔しくて膝の上で拳を握りしめている。「航君……」今迄朱莉はそん
その日の21時― 食事を終えて航がお風呂に入っている間、朱莉は後片付けをしていた。食器を洗っている時に、朱莉の個人用スマホに電話の着信を知らせる音楽が鳴り響く。(ひょっとして京極さん?)水道の水を止め、慌ててスマホを確認するとやはり相手は京極からだった。朱莉はバスルームをチラリと見たが、航が上がって来る気配は無い。緊張する面持ちで朱莉は電話に出た。「はい、もしもし……」緊張の為、朱莉の声が震えてしまう。『朱莉さんですね…』受話器越しから京極の声が聞こえる。「はい、そうです」『良かった……嫌がられてもう電話に出てくれないのでは無いかと思っていたので』京極から安堵のため息が漏れた。「いえ、そんなことは……それに明日会う約束をしていますから」『本当に僕と会ってくれるのですか?』「え?」(だって、京極さんから言い出したんですよね……? 一度約束したことを断るなんて……)「で、でも今日明日会う約束をしましたよね? だから断るなんてしません」朱莉は躊躇いながら返事をした。『人は……簡単に約束なんか破るものですよ』京極は何処か冷淡な、冷めた口調で言う。「え?」『あ、いえ……。朱莉さんに限って、そんなことはするような人じゃないのは分かっています。ただ……』京極はそこで一度言葉を切る。『彼は今、そこにいるのですか?』「彼? 航君のことですか? 今お風呂に入っていますよ」朱莉はバスルームに視線を移すと返事をした。『そうですか。それで明日なんですが、少し時間が早いかもしれませんが9時に会えませんか? 朱莉さんの住むマンションのエントランスで待ち合わせをしましょう』「9時ですね。分かりました」『ありがとうございます、朱莉さん。僕の願いを聞き入れてくれて』「ね、願いだなんて大袈裟ですよ」京極の大袈裟ともいえる発言に朱莉は思わず狼狽してしまった。『それではまた明日。おやすみなさい』「はい、おやすみなさい」それだけ言うと電話は切れた。「……」朱莉はスマホを握りしめたまま考えていた。(どうしよう……もう、私が妊娠していないってことは京極さんにバレてしまった。翔先輩には何とかうまい言い訳をして欲しいって言われたのに……)いっそ、もう子供は出産したと言ってしまおうか? 早産になってしまったので今生まれた赤ちゃんは病院の保育器
(え……? あ、朱莉……。それは……一体どういう意味なんだ!?)航は次の朱莉の台詞に期待しながら尋ねた。「あ、朱莉。何故俺だと楽しく感じるんだ?」「うん。それはね……航君だと気を遣わなくて済むって言うか、一緒にいて楽な人……だからかなあ?」「あ、朱莉……」(え……? こ、こういう場合俺はどう解釈するべきなんだ? 喜ぶべきなのか? それともがっくりするべきなのか? わ、分からねえ……やっぱり朱莉の気持ちが俺には分からねえ……)朱莉の発言に航は頭を抱えてしまうのだった—―****「残念だったな。あの水族館で食事出来なくて……」駐車場に向って歩きながら航が残念そうに言う。「うん。でも仕方が無いよ。だってあんなに大きな水槽を観ながら食事が出来るお店だよ? 誰だって行ってみたいと思うもの。でも、私は大丈夫。だってもう十分過ぎる位水族館を楽しんだから」朱莉は笑顔で答える。「また……きっといつか来れるさ」「そうだね。私は多分このまま明日香さんが赤ちゃんを産んで帰国する直前までは沖縄にいることになりそうだから」「朱莉…」朱莉の言葉に航は胸が詰まりそうになった。(そうだ……。俺は2週間後には東京へ帰らなくてはならない。いや、それどころか、大方依頼主の提示して来た証拠はもう殆ど手に入れたんだ。だからその気になれば明日東京に帰っても何の問題も無い……)だが、航は当初の予定通り3週間は沖縄に滞在しようと考えていた。それは朱莉を1人沖縄に置いておくのが心配だからだ。(いや、違うな。本当は俺が朱莉から離れたくないだけなんだ。朱莉にとって、俺は弟のような存在でしか無いのかもしれない。でも……それでもいいからギリギリまでは朱莉の側に……) 例え4カ月後に朱莉が東京に戻って来れたとしても、その時の朱莉は鳴海翔と明日香の間に出来た子供を育てていくことになるのだ。そうなると、もう航は子育てに追われる朱莉と会うことが叶わなくなるだろう。だから、それまでの間は出来るだけ東京行を引き延ばして、沖縄で朱莉との思い出を沢山作りたいと航は願っていた。「……」航は隣を歩く朱莉をチラリと見た。朱莉は周りの美しい風景を眺めながら歩いている。そんな朱莉を見ながら航は声をかけた。「よし、朱莉。それじゃちょっと遅くなったけど、何処かで飯食って行こう!」「うん、そうだね。何処で食
高速道路を使って2時間程車を走らせ、朱莉と航は美ら海水族館のある海洋博公園へと到着した。「朱莉、ほら行くぞ」駐車場を出ると航は後ろを歩く朱莉に振り向いて声をかけた。「うん」朱莉は人混みの間を縫うようにして航の隣にやって来た。「それにしてもすごい人混みだね。平日なのに」「ああ、そうだな。この間は水族館の中には入らなかったけど、まさかこんなに人が来ているとは思わなかった。もうすぐ夏休みだって言うのにこの人混みじゃ夏休みになったらもっと混むかもな」「うん。駐車場も結構混んでいたものね」「よし、それじゃ行くぞ。朱莉、はぐれないようにな」言いながら航は思った。(朱莉が彼女だったら、はぐれないように手を繋いで歩くことも出来るんだけどな……。しかし朱莉は書類上人妻だ。そんな真似出来るわけないか)等と考え事をしていたら、再び朱莉を見失ってしまった。「朱莉? 何所だ?」航はキョロキョロ辺りを見渡すと、航のスマホに着信が入ってきた。着信相手は朱莉からであった。「もしもし、朱莉? 今何所にいるんだ!?」『今ね1Fのエスカレーターの前にいるの』「エスカレーター前だな? よし、分かった! すぐ行くから朱莉、絶対にそこを動くなよ!」航は電話を切ると、急いで朱莉の元へと向かった。「朱莉!」「あ、航君」朱莉がほっとした表情を顔に浮かべた。「すまなかった、朱莉。まさか本当にはぐれてしまうとは思わなかった」「うううん、いいの。こんなに混んでいれば仕方ないよ。私、それにあんまり出歩かないから人混みに慣れていなくて」「だったら……」航はそこまで言いかけて、言葉を切った。(駄目だ……手を繋ごうか……なんてとても朱莉に言える訳ない)「どうしたの航君?」朱莉は不思議そうな顔で航を見た。「い、いや。それじゃ、なるべく壁側を歩くか」「うん、そうだね」そして2人は壁側を歩き、順番に展示コーナーを見て回ることにした。「うわあああ~すごーい」朱莉が目を見開いて、声を上げた。「ああ、本当にすごいな。水族館は何回か行ったことがあるけど、こんな巨大水槽を見るのは初めてだ」航も感心して見上げる。朱莉と航は今、巨大水槽『アクアルーム』で巨大ジンベイザメや巨大なマンタなどが泳ぐ姿を眺めている。それはまさに目を見張るような光景で、朱莉はすっかり見惚れていた。そん
「朱莉さん……」京極が顔を歪めた。「朱莉……」航は朱莉の悲しそうな顔を見て激しく後悔してしまった。(くそ! あいつに煽られてつい、言い過ぎてしまった)「ごめん、悪かったよ朱莉。俺のことは気にするな。2人で出掛けるといい。俺は邪魔するつもりはないからさ」航は無理に笑顔を作った。(そうさ。所詮俺がいくら朱莉のことを思っても朱莉にとっての俺は所詮弟なんだから。だったら京極の方が朱莉にお似合いだろう。あいつは地位も名誉もある。俺とは違う大人なんだから)「航君……。私は航君と出かけたい……よ? だって航君と一緒にいると楽しいし」朱莉が声を振り絞るように言う。「朱莉……」すると後ろで何を思って聞いていたのか、京極が声をかけてきた。「安西君。悪いですが、そこのコンビニの前で止まってくれませんか?」「何か買い物でもあるんですか?」「……」しかし京極は答えない。(チッ……! 無視かよっ!)「はい、着きましたよ」航はコンビニの駐車場に停めると京極に声をかけた。「ああ、ありがとう。それじゃ、俺はここで降ります。あなた達だけで行って下さい」京極の口から思いがけない言葉が飛び出してきた。「え?」航は驚いて京極を振り返った。「京極さん?」朱莉も驚いている。「すみませんでした。安西君。朱莉さん。無理矢理ついて来てしまって。朱莉さんの気持ちも考えず、本当にすみません」京極は頭を下げると、車を降りた。「京極さん! あ、あの……私……」朱莉が声を掛けると、京極は寂し気に笑みを浮かべる。「朱莉さん……明日は……いえ、お願いです。明日は僕に時間を頂けませんか?」「あ……」(どうしよう……航君……)朱莉は助けを求めるように航を見た。すると航は肩をすくめる。「いいんじゃないか? 朱莉。京極さんと会えば。俺は明日仕事があるからさ」(え? でも、もう殆ど仕事は終わったって言ってたじゃない?)しかし、朱莉は気が付いた。それは航の気遣いから出た言葉だと言うことに。「分かりました。明日大丈夫です」「そうですか、ありがとうございます。それでは何所へ行くかは知りませんが、楽しんできてください」京極は笑顔で言うと車から頭を下げてコンビニへ向かって歩いて行った。その後ろ姿を見届けると航は言った。「朱莉、行こうか?」「うん……行こう」そして航は
車内はしんと静まり返り、一種異様な雰囲気を醸し出していた。誰もが無言で座り、口を開く者は1人もいない。(くそっ! こんな空気になったのも……全ては何もかもあの京極のせいだ……)航はイライラしながらバックミラーで京極の様子を確認すると、彼は何を考えているのか頬杖を突いて、黙って窓の外を見ている。(本当に得体の知れない男だ。こんなことになるなら、あいつのことももっと調べておくべきだったな)その時ふと隣から視線を感じ、チラリと助手席を見ると朱莉が心配そうな顔で航を見つめていた。その瞳は不安げに揺れていた。(朱莉……そんな心配そうな目で見るな。安心しろ、俺が何とかしてやるから)心の中で航は朱莉に語りかけると言った。「朱莉、車内に何かCDでも積んであるか? もしあるなら車内で聞こうぜ」「え、えっとね……。それじゃ映画のテーマソング集のCDがあるんだけど……それでもいい?」「ああ、勿論だ。何てったって、この車は朱莉の車だからな」航は笑顔で言いながら、チラリとバックミラーで京極の顔を見ると、不機嫌そうな顔で腕組みをして前を向いていた。「これ……なんだけど。かけてもいい?」「ああ、いいぞ。それじゃ入れてくれるか?」航の言葉に朱莉は頷くと、CDを入れた。すると美しい女性の英語の歌声が流れてくる。「ふ~ん……初めて聴くけどいい歌だな。これも映画の歌なのか?」するとそれまで黙っていた京極が口を開いた。「朱莉さん、この映画は『オンリーワン』というハリウッドの恋愛映画ですね。この映画、朱莉さんも観たんですか?」「え、ええ……あの、テレビで夜中に放送した時に録画して観たんです」朱莉は躊躇いがちに答えた。すると京極は続ける。「前回は一緒に映画の試写会へ行くことが出来なくて残念でした。でも朱莉さん、また試写会のチケットは貰えるので、今度手に入ったらその時こそ御一緒して下さいね」「は、はあ……」朱莉は曖昧に返事をした。京極はにこやかに話しかけてくるが、朱莉は内心ハラハラして仕方が無かった。何故、京極は前回朱莉が行くことが出来なかった試写会の話を今、しかもよりにもよって何故航の前でするのだろうか?朱莉は恐る恐る航を見ると、航は何を考えているのか無言でハンドルを握りしめ、前を向いて運転している。(航君……)朱莉にとってはまさに針のむしろ状態だ。しかし
「は、はい……すみません……」項垂れる朱莉に航は声をかけた。「朱莉、別に謝る必要は無いぜ」「! また君は……っ!」京極は敵意の込めた目で航を見た。「ところで京極さん。そろそろいいですか? 俺と朱莉はこれから2人で出掛けるんですよ。話ならメールでお願いしますよ。それじゃ、行こう。朱莉」航が朱莉を手招きしたので、朱莉は京極の方を振り向くと頭を下げた。「すみません。京極さん……。何故沖縄にいらっしゃるのかは分かりませんが、また後程お願いします」そして朱莉は航の方へ歩いて行こうとしたとき、京極に右腕を掴まれた。「!」朱莉は驚いて京極を見た。「朱莉さん……待って下さい」「朱莉!」航は朱莉の名を呼ぶと京極を睨んだ。「……朱莉を離せ」「……」それでも京極は朱莉の右腕を掴んだまま離さない。「あ、あの……京極さん。離していただけますか?」「嫌です」京極は即答した。「え?」朱莉は耳を疑った。「僕も一緒に行きます。いえ、行かせて下さい」「な、何を……っ!」航は京極を睨み付けた。「朱莉さん、お願いです……。僕もついて行く許可を下さい……」その声は……どこか苦し気だった。「あ、あの……私は……」朱莉にはどうしたら良いのか判断が出来ず、助けを求めるように航を見つめた。(朱莉は今すごく困ってる。俺に助けを求めているんだ……! きっと朱莉の性格では京極を断り切れないに決まってる。だったら俺が決めないと……)「……分かりましたよ。そんなについてきたいなら好きにしてください」航は溜息をついた。「……何故、君が判断をするんですか?」京極はどことなくイラついた様子で航に言う。するとすかさず朱莉が答えた。「わ、私は……航君の意見を優先します」「朱莉さん……」京極は未だに朱莉の右腕を掴んだまま、何所か悲しそうな目で朱莉を見つめた。「……もういいでしょう? 貴方は俺達と一緒に出掛けることになったんだから朱莉の手を離してくれませんか?」航は静かだが、怒りを込めた目で京極を見た。「分かりました、離しますよ」そして朱莉から手を離すと京極は謝罪してきた。「すみません。朱莉さん。手荒な真似をしてしまったようで」「いえ……別に痛くはありませんでしたから」朱莉は俯きながら答えた。そんな様子の朱莉を見て、航は声をかけた。「朱莉、助手席に乗